立憲民主党の岡田幹事長の質問に対する首相答弁、そしてそれを受けての中国総領事の「首斬り」発言に端を発し、日中関係がゴタついています。
「歴史」「尖閣諸島」「処理水(中国風にいうと”汚染水”)」…テーマは違うものの、日中関係はよくゴタつきます。それ自体はよくあることなのでまあ良いのですが(良くはない)、今回のテーマは「台湾」を巡る安全保障の話でした。
「台湾って中国なの?」
「いや、台湾は台湾って国でしょ」
こんな会話はおそらく日本中のあちこちで、ごくごく無邪気に交わされているのではないでしょうか。無知と言ってしまえばそれまでですが、中国と台湾の歴史には、我々日本人も深く関わっています。今回改めて、政府見解と論点を整理してみました。
台湾をめぐる日本の立場
外務省のホームページには、こう記載されています。
台湾に関する日本の立場はどのようなものですか。
台湾との関係に関する日本の基本的立場は、日中共同声明にあるとおりであり、台湾との関係について非政府間の実務関係として維持してきています。政府としては、台湾をめぐる問題が両岸の当事者間の直接の話し合いを通じて平和的に解決されることを希望しています。
「非政府間の実務関係」という言葉に注目です。実は1973年から今まで、日本と台湾は政府同士での外交関係がない、「断交状態」にあります。
中国の歴史をおさらい
第2次世界大戦以前
19世紀末、清朝は欧米列強の圧力や国内の反乱で弱体化し、改革が進まない状況にありました。こうした中、孫文らが中心となって清朝打倒を掲げ、1911年に「辛亥革命」が起こります。翌1912年、清が滅亡し、アジア初の共和制国家である中華民国が成立しました。
中華民国成立後も中央政府は弱体で、軍閥が各地を支配する混乱が続きました。このなかで社会不安や思想潮流を背景に、1921年に上海で中国共産党が誕生します。孫文の国民党はソ連の支援を受けて再編され、共産党との協力体制である第一次国共合作が始まりました。
1926年には蒋介石が北伐を進めて軍閥勢力を圧迫しましたが、翌1927年に国民党右派が共産党を排除し、両者は対立へと転じます。その後、共産党は農村に根を張り、長征を経て組織基盤を固めながら国民党との内戦を継続していきました。
1937年に日中戦争(抗日戦争)が始まると、国民党と共産党は一時的に対立を保留し「第二次国共合作」を結成。抗日のため協力体制を取ります。
第2次世界大戦後
1945年の日本敗戦後、国民党と共産党の対立が再燃し、第二次国共内戦が始まります。国民党政府は経済混乱や腐敗などで支持を失い、農村で支持を集めた共産党軍が優勢となりました。1949年、共産党は北京で中華人民共和国の成立を宣言します。
追い詰められた蒋介石率いる国民党政府は同年末に台湾へ撤退し、台北に中華民国政府を移転。これにより、中国大陸は中華人民共和国、台湾には中華民国という2つの国が誕生したのです。
日本・中国・台湾の歴史的経緯
カイロ宣言(1943年)
次に、日本と中華民国・中華人民共和国との関係について、過去の声明をもとに見ていきます。まずは第二次世界大戦の最中に出された1943年のカイロ宣言です。この宣言は、1943年12月にアメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、そして中華民国の蒋介石による会談で発出された、日本に対する要求でした。
右同盟国(注※アメリカ・イギリス・中華民国)の目的は日本国より1914年の第一次世界戦争の開始以後に於て日本国が奪取し又は占領したる太平洋に於ける一切の島嶼を剥奪すること並に満洲、台湾及澎湖島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還することに在り日本国は又暴力及貪欲に依り日本国の略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし
日本は台湾を中華民国に返すように、という言葉があります。この時点では、中華人民共和国は存在していないので、返却先は当然「中華民国」と書かれています。
ポツダム宣言(1945年)
次はポツダム宣言第8項を見ていきましょう。
歴史の教科書でもおなじみポツダム宣言…!
ポツダム宣言とは、1945年7月26日、日本に対してアメリカ・イギリス・中華民国の政府首脳により発出された声明文です。同年8月14日、日本政府は事実上の降伏要求であるこの宣言を受諾することを御前会議で決定、終戦を迎えました。(国民に玉音放送で終戦が伝えられたのは翌15日)
全13か条からなる声明文の第8項には、このような記載があります。
八 「カイロ宣言」の条項は,履行せらるべく,又日本国の主権は,本州,北海道,九州及び四国並びに吾等の決定する諸小島に局限せらるべし。
ご存知のとおり、終戦前の日本の領土は、南樺太・千島列島・朝鮮半島・台湾島を含んだものでした。第8項で、「吾等」つまりアメリカ・イギリス・中華民国は、日本の領土は「本州・北海道・九州・四国」と、「吾等の決定する諸小島」に限り、その他の領土は手放してくださいね、と要求しました。そしてこの第8項こそが、中国が「台湾は中国の領土である」と主張するエビデンスとなっているのです。
サンフランシスコ平和条約(1952年)
次は、サンフランシスコ平和条約です。戦後、GHQの間接統治を受けていた日本は、1951年に開催されたサンフランシスコ講和会議でようやく国としての主権を回復しました。(条約発効は1952年4月28日)この会議での台湾に関する文言は次のとおりです。
(b) 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
日本が台湾を放棄するのはわかりました。ただこの文章には、カイロ条約と違って、放棄された台湾がどこに帰属するのかが書かれていません。実は、サンフランシスコ講和会議には、1949年に成立した中華人民共和国も、台湾に逃れた中華民国も招待されていなかったのです。旧連合国同士で、どちらを”中国”代表と認めるかで意見が割れたのが原因とされています。
日華平和条約(1952年)
サンフランシスコ平和条約の発効直前の1952年4月28日、日本と中華民国は日華平和条約を結びました。(条約発効は8月5日)この条約は、日本と中華民国間の戦争状態を終結させ、国交を回復することを宣言したものです。
書簡をもって啓上いたします。本日署名された日本国と中華民国との間の平和条約に関して、本全権委員は、本国政府に代つて、この条約の条項が、中華民国に関しては、中華民国政府の支配下に現にあり、又は今後入るすべての領域に適用がある旨のわれわれの間で達した了解に言及する光栄を有します。
この時点では、日本と中華人民共和国の国交はありません。文中には中華民国の領土の範囲については言及があるもの、中華民国が”中国”であるという記述や、中華人民共和国に関する記述はされていません。
日中共同声明(1972年)
周恩来の招待を受け、当時首相だった田中角栄が訪中、国交の正常化が実現しました。
では、日中共同声明を見てみます。9項目の声明の中から、関係がありそうな項目をピックアップしました。
一 日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する。
二 日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。
三 中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。
第1項は国交を正常化するという宣言です。第2項では、中華人民共和国政府を「中国」の唯一の合法政府であると認めています。
ここからが複雑です。主語に注目しましょう。台湾が中国の一部であると宣言しているのは、中国政府のみです。
中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。
いっぽう日本は、この中国政府の立場を「十分理解し、尊重」するというものの、中華人民共和国政府の立場に「同意」はしていません。その上で、自分たちは「ポツダム宣言第八項に基づく立場」を堅持する。と言います。
日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。
現在、日本の有識者(やニュース媒体)の一部では「日中共同声明で日本政府は”ひとつの中国”を認めたじゃないか!」という意見を見かけます。”ひとつの中国”、つまり中華人民共和国と台湾は同じ国であるとする立場ですが、上記の文章をよく読むと日本は必ずしもそれに同意していないことが分かります。
ただ、「認めない」とも言っていないんですよね。あくまで「あなたのスタンスは分かりますよ」という姿勢です。詳しくは後述しますが、この「あいまい戦略」こそが現代まで続く日本政府の立場になります。
台湾との断交(1972年)
日中共同声明の発出は、日本外交にとって大きな転換点となりました。ここで重要なのは、声明そのものは「日華平和条約を破棄する」という直接の文言を含んでいないという点です。つまり、法的には日華平和条約(1952年)はその時点で存続していました。しかし、現実的な外交関係は大きく変化していきます。
日中共同声明の発出直後、当時の大平正芳外務大臣は国会で次のように発言します。
「日華条約は事実上失効したものと考える」
これは法的失効ではなく政治的失効という立場表明です。日本政府は、日華平和条約を明確に廃棄する手続き(破棄通告)を行っていません。
こうした日本側のあいまいな態度に対して、より明確な対応を取ったのは台湾(中華民国)政府です。中華民国政府は日本の発表を受け、日本との外交関係の断絶(断交)を宣言します。これにより、1952年から続いてきた日台の正式な外交関係は終わりました。条約文書上の破棄手続きが行われなかったため、「失効」「終了」「破棄」といった用語は現在でも文献によって扱いが揺れています。
それって、日本は台湾より中国を取ったってこと?なんかイヤな感じ…
ここで注意すべきなのは、「断交=完全な関係消滅」ではなかったという点です。国交断絶後も、日本と台湾(中華民国)間では次のような実務者レベルの協議と窓口機関の設置が継続しました。
- 台湾側:「亜東関係協会」(1972年設立)
- 日本側:「日華関係協会」(1972年設立)
これらは外交機関ではありませんが、ビザ発給、経済交流、貿易契約、文化交流など、実務を維持するための準外交ルートとして機能しました。表向きには国交が途絶えた状態でも、実際には日台間の交流は継続し、むしろ1970年代後半以降は貿易量が拡大していきます。
つまり、政治的には「断交」、実務的には「継続」という二層構造が、日本と台湾の関係に生まれたことになります。この構造はのちに「非政府間交流」と呼ばれ、現在の日本の台湾政策の基本的枠組みへと受け継がれていきます。
まとめ:日本のあいまい戦略をもう一度
現代に戻りましょう。中国外交部報道局局長の毛寧氏(広末涼子似)は、先日こんな投稿をしました。

これまで見てきた文章ですね。この文章を引用して毛寧さんが言いたいことは2つです。
- ポツダム宣言(1945年)で日本国政府は台湾の領土を放棄した、つまりその時点で台湾は中国の領土である
- 日中共同声明(1972年)で日本国政府は台湾が中華人民共和国の一部であることを認めた
ここまで見てきたように、日本は1972年の日中共同声明によって、中華人民共和国政府を「中国の唯一の合法政府」と認めた一方で「台湾は中国の一部である」という主張には同意していません。日本が述べたのはあくまで、「その立場を理解し、尊重する」という姿勢に留まりました。
- 「理解・尊重」=聞いているし、認識しているし、否定はしない
- しかし「同意」=自分たちの立場として採択した、とは言っていない
この微妙な“距離感”が現代まで続く日本外交の基本線になっています。ここで再び外務省の公式見解を確認すると、このあいまいさが非常に明確に示されています。
台湾に関する日本の立場はどのようなものですか。
台湾との関係に関する日本の基本的立場は、日中共同声明にあるとおりであり、台湾との関係について非政府間の実務関係として維持してきています。政府としては、台湾をめぐる問題が両岸の当事者間の直接の話し合いを通じて平和的に解決されることを希望しています。
日本政府は今日に至るまで 「非政府間の実務関係」という枠組み(=外交ではなく実務)を強調し続けています。逆に言えば、「台湾は国家かどうか」という政治的な評価については一貫して踏み込まない姿勢です。
中国を論破するわけでもなく、同意するわけでもない。判断保留(strategic ambiguity/戦略的あいまいさ)が日本政府が半世紀にわたって採用してきた外交手法です。
ですが最近、その曖昧さが揺らいでいます。中国の習近平主席は近年、「中華民族の偉大な復興」を掲げ、台湾統一への野心を隠していません。これに対して台湾の頼清徳総統は、武力侵攻への危機感をたびたび表明しています。この状況の中で、日本はどのように振る舞うべきか。我々ひとりひとりが考えるべき時に来ているのではないでしょうか。
参考記事
- 新聞ですら間違えた「台湾問題」に対する日本政府の立場。「日本は台湾を中国の一部と認めている」と思い込む人たちの課題 | 東洋経済ONILINE
- 台湾との「断交50年」 世界で初めて実現した形はなぜ生まれたのか | Yahoo!ニュース
- だれが「戦後国際秩序」の担い手か -第二次大戦をめぐる中国の戦略的ナラティブ-| IG 地経学研究所
- 高市早苗総理発言と日中台関係なぜ中国は強硬に応対するのか | 中国学.com
- 令和5年版 防衛白書 武力攻撃事態等及び存立危機事態における対応 | 令和5年版防衛白書 防衛省・自衛隊
